
イラク、イラン、アフガニスタン・・・。最近、世の中が随分と物騒になっている様に思う。連日、テロリストが自分たちの正義を掲げて一般市民を含む人々を標的に無差別に攻撃を加え、多数の死者や負傷者が出ている。この様なニュースを聞くといたたまれなくなる。彼らの正義が「自分の仲間達が平和に暮らす」事だとしたら、人間とはなんと自己中心的なのだろうと思ってしまう。
一方、生物学的に「種を残す本能的なもの」として彼らの行動を捉えられるとしたら、彼らも自然の掟に従っているだけなのかもしれない。
残念なことは、彼らがもう少し広く寛大な心をもって「人類」を種として考えてくれないことだ。
ここで「平和」についてちょっと考えてみる。
この言葉ほど、我々日本人が頻繁に口にする言葉はないのではなかろうか。日本人は平和という言葉を好み、本当に良く使う。日本人は平和に対する思い入れが強い世界でも有数の国であると良く耳にする。日本人は誰もが平和な世の中を願っている。
さて、ここでいくつか質問をしてみる。
「あなたは今、平和ですか?」「平和だと思う理由は何ですか。」
どこか違和感がある。あなたは今平和か、というのは何か変な感じだ。平和な「国」平和な「地域」と言うが、個人が平和、とはあまり言わない様な気がする。平和な「環境」平和な「状態」、とも表現するが、これは場所のことではない。
「平和の理由」の方はどうだろうか。これも良くわからない。
平和である理由を語るには、平和とはどの様な状態を指すのかを定義しなければならない。世の中では平和とはどの様に定義されているのだろうか。
Wikipediaには「平和(へいわ)とは、戦争や内戦で、社会が乱れていないこと。現実的には国家の抑止力が内外の脅威を抑止している状態である。史学では戦間期とも表現され、戦争終結から次の戦争開始までの時間を意味する。」とある。一言で言うと戦争や内戦などがない状態である。
国連に平和維持活動というのがある。「紛争の拡大防止や休戦協定履行監視、または選挙監視のため、加盟国が自発的に提供した要員を国連が編成し、派遣すること。非武装の監視団と軽武装の平和維持軍(PKF:Peace‐keeping Force)とに大別される。」とある。武装した軍隊が平和を維持するらしい。

ヨハン・ガルトゥングというオスロ生まれのノルウェーの政治学者が平和を戦争のない状態と捉える「消極的平和」に加えて、貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない「積極的平和」を提起し、平和の理解に画期的な転換をもたらした。
構造的暴力とは何であろうか。社会の構造により生じる問題ということだろうか。つまり、個人的なものではなく、世の中の仕組みによる貧困や抑圧や差別ということだろうか。具体的にはどの様なことを指すのか。
構造的暴力を調べてみた。通常の暴力は個人、政治が集団、警察や軍隊、国家、社会の制度(司法や裁判など)などの暴力主体と暴力の目的がはっきりしているが、構造的暴力は特定の行為者の特定の意志がわかりにくいもの、ということらしい。
ここまで書いていて、ちょっとこれはかなり難しい話になったなと感じてきている。しっかりと理解しないと話を進められない。平和の定義がこんなに複雑で難しいとは思っていなかった。
ただ、一つ分かったことがある。「平和を願う」と口にするのは容易いが、具体的な平和を実現するためには、その一言では語れないくらい複雑な要素を含んでいるということだ。もう少し勉強したのちに、再度、筆をとってみようと思う。
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