2020年02月一覧

思い込みは恐ろしい。

「物を観察すると観察した瞬間に形が変わってしまう」という話を聞いたことがある。
量子論での話だったと思うが、詳しく憶えていない。
若い頃にこの話を聞いて、「そんなことがあるのか!ならば、小さい頃に私を悩ませたあの空想はもしかしたら本当に起こっているのかも知れないじゃないか。」と驚いた。
あの空想とは。「お母さんやお父さんはいつも僕より遅くまで起きているが何をしているのだろう。もしかしたら、本当はお母さんとお父さんは宇宙人で、僕がねている間に宇宙人に戻って地球征服の作戦を進めているかもしれない。もしかしたら、本当は骸骨で、僕が寝ているときは手や足やアゴをカチカチ鳴らしているんじゃないか。僕が朝起きて、お母さんとお父さんに「おはよう」と言って顔を見た瞬間に人間に戻っているんじゃないか。もしかしたら、お兄ちゃんもそうかもしれない。僕一人だけ人間で、他の家族はみんな宇宙人か骸骨なんじゃないか?いやいや、家族だけじゃないぞ、友達も、学校の生徒も、道を歩いてるおじさんもおばさんも・・・地球人全部がそうかもしれない!怖いよぉ!助けてくれよぉ!」
いま考えると、地球人がみんな宇宙人って何のこっちゃ?と思いますよ、いくらなんでも。自分だけが人間(地球人)で他の人は宇宙人なんて、何でそんなことになるのかわからないし、そんな状況なら、わざわざ昼間に私だけのためにみんなが地球人になりすます意味がないよね。みんなガイコツ?なんで自分だけ生きているの?
何でこんなことを考えたんだろう。もしかしたら、他人と自分が違うということを意識し始めたからかもしれない。こういうことを自我の目覚めというのかもしれない。
さて、物を観察すると物が変わるとはどういうことだろうか。
「人間の意思が何らかの形で物に影響を与えるんだ。じゃあ、念力は本当に存在するかもしれない。気功で相手に触れずに投げ飛ばす技は本当に可能なんだ。ドラゴンボールの孫は本当にかめはめ波で敵を倒せるんだ」。
この話を聞いたときにこんなことを考えたんだと思う。思う、というのは昔の事なので忘れてしまったからだ。つい先日までこの話はずっと私の記憶の片隅に追いやられていた。


NHKにお気に入りの番組がある。日曜日の夜にやっているサイエンスZEROという番組だ。現代科学の最先端の話を解りやすく教えてくれる。この番組から数多くのことを知り、人類の未来を考えることはとても楽しい。
先日、ZEROで次世代の顕微鏡について取り上げられていた。この時、若い頃に聞いた観察時瞬間変形説を理解する手がかりが目の前に現れた。
極微小なものを感察する際にはとても強力な光が必要となる。日光の何億倍もの明るさである。光には質量があるので、物に光をあてると力がかかる。今までの顕微鏡は光を当ててから観察するまでの時間が長く、物が変形してしまうのだ。新しい顕微鏡はこの時間が短かいために変形する前に観察ができるそうだ。
そういうことだったのか。物事にはちゃんと理屈があるものだな。そういうことをきちんと理解することが大切なんだな。そう反省した。
この大切なことを子供に伝えたくなって、娘に話しかけた。
「ねえねえ「物を観察すると観察した瞬間に形が変わってしまう」って話、知ってる?量子論っていうんだよ。」
「うん、この前、ラジオで量子論のことをやっていたよ。」
「あれはどういうことか知ってる?」
「ううん知らない。」
「実は、・・・・(以下省略)ってことらしいよ。」
「ん~、それってラジオの説明とは違うよ?」
「じゃあ、ちゃんと調べてみるよ。」
よく考えたら量子論のことをきちんと調べたことがない。これまで何で調べなかったのだろう。
きちんと調べてみた。全く違っていた。
量子論のことはここでは詳しく書かないが(難しくて書けないが)、物質を構成する粒子が空間のどこに位置するかは時間によって変わる、ということに関係している様だ。
事実を正しく理解することは本当に大切だ。本当のことをきちんと理解せずに思い込んでしまうことはとても恥ずかしく、良くないことだと深く反省させられた。
ところで、ラジオを聞いて娘は量子論を理解したのだろうか・・・。


「平和」について考えてみた。

イラク、イラン、アフガニスタン・・・。最近、世の中が随分と物騒になっている様に思う。連日、テロリストが自分たちの正義を掲げて一般市民を含む人々を標的に無差別に攻撃を加え、多数の死者や負傷者が出ている。この様なニュースを聞くといたたまれなくなる。彼らの正義が「自分の仲間達が平和に暮らす」事だとしたら、人間とはなんと自己中心的なのだろうと思ってしまう。
一方、生物学的に「種を残す本能的なもの」として彼らの行動を捉えられるとしたら、彼らも自然の掟に従っているだけなのかもしれない。
残念なことは、彼らがもう少し広く寛大な心をもって「人類」を種として考えてくれないことだ。
ここで「平和」についてちょっと考えてみる。
この言葉ほど、我々日本人が頻繁に口にする言葉はないのではなかろうか。日本人は平和という言葉を好み、本当に良く使う。日本人は平和に対する思い入れが強い世界でも有数の国であると良く耳にする。日本人は誰もが平和な世の中を願っている。
さて、ここでいくつか質問をしてみる。
「あなたは今、平和ですか?」「平和だと思う理由は何ですか。」
どこか違和感がある。あなたは今平和か、というのは何か変な感じだ。平和な「国」平和な「地域」と言うが、個人が平和、とはあまり言わない様な気がする。平和な「環境」平和な「状態」、とも表現するが、これは場所のことではない。
「平和の理由」の方はどうだろうか。これも良くわからない。
平和である理由を語るには、平和とはどの様な状態を指すのかを定義しなければならない。世の中では平和とはどの様に定義されているのだろうか。
Wikipediaには「平和(へいわ)とは、戦争や内戦で、社会が乱れていないこと。現実的には国家の抑止力が内外の脅威を抑止している状態である。史学では戦間期とも表現され、戦争終結から次の戦争開始までの時間を意味する。」とある。一言で言うと戦争や内戦などがない状態である。
国連に平和維持活動というのがある。「紛争の拡大防止や休戦協定履行監視、または選挙監視のため、加盟国が自発的に提供した要員を国連が編成し、派遣すること。非武装の監視団と軽武装の平和維持軍(PKF:Peace‐keeping Force)とに大別される。」とある。武装した軍隊が平和を維持するらしい。


ヨハン・ガルトゥングというオスロ生まれのノルウェーの政治学者が平和を戦争のない状態と捉える「消極的平和」に加えて、貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない「積極的平和」を提起し、平和の理解に画期的な転換をもたらした。
構造的暴力とは何であろうか。社会の構造により生じる問題ということだろうか。つまり、個人的なものではなく、世の中の仕組みによる貧困や抑圧や差別ということだろうか。具体的にはどの様なことを指すのか。
構造的暴力を調べてみた。通常の暴力は個人、政治が集団、警察や軍隊、国家、社会の制度(司法や裁判など)などの暴力主体と暴力の目的がはっきりしているが、構造的暴力は特定の行為者の特定の意志がわかりにくいもの、ということらしい。
ここまで書いていて、ちょっとこれはかなり難しい話になったなと感じてきている。しっかりと理解しないと話を進められない。平和の定義がこんなに複雑で難しいとは思っていなかった。
ただ、一つ分かったことがある。「平和を願う」と口にするのは容易いが、具体的な平和を実現するためには、その一言では語れないくらい複雑な要素を含んでいるということだ。もう少し勉強したのちに、再度、筆をとってみようと思う。

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